morning によせて

前記事の文章を書いてから随分経ちますが、未だに森脇監督のファルルへの溺愛ぶりを見ていると、ファルルにもチームを組ませてあげたいという親心は過分にあっただろうし、
そうするにあたって、過去と現在の彼女、両方を肯定するキャラクターを生み、チーム結成へ導いたことは、今考えてもさもありなんという感じがします。
ファルルという複雑な存在とその周囲を描く時に、「過去の彼女に憧れ、賛美して肯定する存在」は必要不可欠だったと思っていて、
それはなぜかといえばファルルが”めざめ”たことを皆が喜んだ、「喜んでしまった」から。

紫京院ひびきは、ファルルの”めざめ”を皆が喜んでしまったことへの補完的役割を持って(勿論それだけではない)生まれたというのは的外れでないと思うけれども、
じゃあ緑風ふわりはというと、彼女の特殊で異質なところは、これはもう明確に、ファルルに憧れていない(あるいは、意識的に憧れないようにしている)というところであって、
めざめたファルルを肯定する人たちは緑風ふわりが現れる前から既に大勢いた、その中で緑風ふわりがファルルに対して与えられた(齎した)役割は何だったのかと考えると、多分これは絶対に、「憧れという名の隔絶を含まない肯定」つまり、究極的な「わたしとあなたはおなじ、ひとつの命」という目線だと思うんですよね。

紫京院ひびきはファルルに憧れて、ボーカルドール化することで彼女のような存在になろうとした、理想に近づこうとしましたが、近づこうとするということは距離があるということで、
紫京院ひびきはプリンセスファルルのことを自分と同じ生き物とは思っていなかったし、到底思えなかっただろうと察します。
プリンセスファルルの美しさ、完璧さは、ボーカルドールだから。
一転、緑風ふわりの視点では、今のファルルの美しさや尊さは、ボーカルドールという器に宿っているものではなくて、彼女の心や魂が宿し、放つ光であり、つまりファルルがファルルだから、眩しい。
これはそもそも正しい方なんてない、というか、どちらもの考えがファルルのためには必要だったんだと思います。

「目の前にいる、今のあなたしか知らず、今のあなただけを好いて、今のあなたのみを認めてチームを結成する」 
他のチーム、他のアイドルであれば、ほぼ何の問題もなく当たり前に通用する、してきた普遍的な進行が、
ことファルルという存在、彼女の境遇に対してだけは、冒涜にすらなり得るということを森脇監督か、脚本のどなたかか、とにかく誰かが理解していたから、ファルルには双方からの肯定が必要であって、それがきちんと与えられたんじゃないかと思います。

紫京院ひびきは憧憬の中で「ボーカルドールとして」過去のファルルを愛し、
緑風ふわりは隔たりのない平等の上で「自分とおなじ存在」として今のファルルを愛した、
そしてトリコロールが結成された今、これからの、未来のファルルを愛するのはひびきとふわりの二人という構図がめちゃくちゃ強いし、大好きだと改めて思います。


「自由・平等・博愛」についてもっと考えたらスッキリできるような気がする

補足:morningという曲に絡めて書いたことなので、ファルルに焦点をあてていますが、ひびきとふわりがファルルのためだけに生み出されただとか、二人の存在理由が全てそれであるとかではなく、
あくまで、他者との関係には不可欠である、誰かに対する誰かの役割の可能性を書いているだけで、全てがファルルに対する祝福であるというような意味ではありません。たとえそうであってもいいとは思いますが。
逆にふわりにとってのファルルが意味したところ、ひびきにとってのファルルが意味したところも勿論ありますし、
生きている存在同士の、相互の関係において、片方だけが一方的に単一の役割を相手に対して背負うなんてことは、当然絶対にあり得ないので